映画・テレビ

2013年12月30日 (月)

Oculus Advent Calender 30th Dec 2013: 映画の再定義

映画は置き換える/私たちのまなざしに/
私たちのまなざしに/世界を/世界を/世界を/
置き換える/私たちの/欲望に/欲望にかなうように 置き換える

               ミッシェル・ムルレ 知られざる芸術について


2013年,私にとって僥倖だったのは,Oculus勝手開発勢のみなさんの仲間に加えて頂いたことです.これまで所属していた感性デザイン学科から,新設のリハビリテーション支援学科リハ工学専攻に移り,これまで福祉機器,介護用品の研究開発は手がけていたものの,さあーて,何を作ったろうかー,センサー系で楽しくリハビリができるものを作ったろーーーと思っていたところでした.
ちょうどOculus Riftという画期的に安いHMDが出るでーというツイートを@GOROmanさん,@yuujiiさん,@needleさんがされていました.昔むかし,1990〜1994年頃,私自身は直接関わることはありませんでしたが,私が属していました,広島大学工学部の長町先生の研究室が,松下電工のヴァーチャルキッチンのプロジェクトに関わっていたり,学部生や院生が,初期のVRtoolkitに苦労していたりしていましたので,まあ,これはとりあえず買っとくしかないな,ということで皆様とのつながりが始まったわけです.

Mikulusの衝撃,Lukalusの楽しさ
 Oculusが届くやいなや,@GOROmanさんのMikulusが投下されました.
今見ると,残っているのは6月11日版 が最も古いですね.
これを見て,なにが衝撃かというと,当時の私のツイートを見ると

さて,Mikulusが,ここ10年の間で,もっとも強烈な《映画的体験》であったことは告白しなければならない(唐突に蓮實重彦氏を思い出す)
posted at 13:22:52

さらに,だ.Mikulusにおいて,僕らはミクさんをじゃらして楽しんでいるとおもいこんでいる.しかし,じゃらしているのはミクさんじゃないか,僕らがじゃらされているのだと気づいた時の説話性の衝撃たるや,
posted at 13:36:44

この《心地よい謎》と《問いかけ》を楽しみ続けられるか,そして映像とはなにか,来るべき《映画》とはなにか,問いかけ続ける《しつこさ》《あきらめのなさ》を僕らが持ち続けられるのか,Mikulusは慰安として,そして巨大な問いとして,誘いつづける.
posted at 13:44:56

さて,以上は狭義の《映画》についてでした.広義の《映画》について考えます.昨日,(Mikulusが,ここ10年の間で,もっとも強烈な《映画的体験》であったことは告白しなければならない)と書きました.
posted at 09:22:28

《映画的体験》は,意外と近くにあるのではないかと思うようになりました.しかし,それを確実にものにするにはある種の奇跡は必要なんだろうと思う.Mikulusのように.
posted at 09:34:20

忘れないうちに.見ている自分が見えることの面白さ,意義については,@needle さんのMikulus Kinectでもたっぷり示されていました.自己(身体)認識,自己像というものの神経認知,再学習の容易さ面白さ(ラマチャンドラン的な意味で)はここでもかなり重要.#Ocufes
posted at 01:32:14

しかも過剰なまでの物語性が RT @GOROman: OculusRiftでMikulusを作って自分で衝撃だったのは、本来肉体がないキャラクターが目線を合わせてくることで、ある種の認知欲求が満たされることがわかったことです。これは現代人の脳のサプリメントに成り得ると感じました。
posted at 08:52:25

なので,Mikulusを初めて動かしてみたとき,こ,これはゴダールなのか!あるいは新しい映画の誕生なのか!!そもそも映画とはなんだったのか!!!とコーフンした訳です
posted at 08:54:42

僕が @GOROman さんのMikulusを,映画を再定義するものなのか!と感心したのと同様に.
posted at 06:35:21

リュミエール兄弟の映画は,見せ物的な扱いで,じっさい駅に着く機関車の上映では怖がって逃げ出すひとがいたとか有名な話なのですが,僕が以前,力説した話を蒸し返すと,Mikulusの登場は,いきなり映画史60年分ぐらいをぶっ飛ばしてヌーベルヴァーグに到達したと思ってます
posted at 07:20:42

Mikulusも,同様,あるいはそれ以上に,こちらを見つめている謎の美女的なミクさんしかいない世界に自分を放り込む感覚であり,
posted at 07:31:23

またこれもヌーヴェルヴァーグによくあるのですが,なんだかよくわからないが意味ありげな(説明をぶっとばした)シチュエーションや風景の中のショットが多く,これもMikulusはずっぱまりで
posted at 07:32:53

と,いささかコーフン気味に書いています.ちょっと恥(=´Д`=)ゞ

しかし,いまだにこれはヌーヴェルヴァーグだ!という感覚と,映画の再定義なのか?という思いは一貫しています.

@yuujiiさんのLukalusについては,Lukaさんが僕だけのために踊ってくれる!という,楽しさうれしさはもちろんでしたが,つぎの瞬間に強く考えさせられたのは,“まてよ,観客と役者がまったく同じ平面にいる!”,ということでした.
観客と役者が同じ平面にいるということは,これまでとまったく違った目線であること,まったく違う没入感であること,そして通常の劇ではまずありえないシチュエーションであることを本気で考えなければならない.僕は演劇については,予備知識がさっぱりなので,これについてはここではあまり突っ込んだことを考えられそうにないので,これは本稿ではカバーしきれず宿題になるかな.

以下では,映像の大先輩である映画について,ヌーヴェルヴァーグの代表者の一人であるJean-Luc Godard が作った《映画史》,HISTOIRE (S) DU CINÉMAを参考にしながら,Mikulusの衝撃について考えていきます.しかしながら,年寄りらしく言いたいことはいろいろあり,脱線の繰り返しになってしまいますことをお許しを.

ゴダールと《映画史》について

ゴダール監督は,ヌーヴェルヴァーグの創始者の一人であり,また,トリュフォーやルイ・マルをはじめとする他の同志ともいえる監督達が若くして亡くなってしまったので,現在では生けるヌーヴェルヴァーグとして扱われています.
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=リュック・ゴダール 

ヌーヴェルヴァーグは,アンリ・ラングロワとジョルジュ・フランジュの2人とその仲間の監督達,批評家達が,ラングロワの自宅やそこらのイベントスペースでやっていた勝手上映会から始まっています.ゴダールは最初はたしか批評家でした.勝手上映会だった組織は,いまではシネマテーク・フランセーズ(デカい名前だな)として,いまでは国営の施設になっています.
すごいな,完全にインディーなムーブメントがいまでは国の機関.

ゴダールの《映画史》,HISTOIRE (S) DU CINÉMAという作品があります.(S)は,歴史が複数であることを意味し,存在した歴史,ありえた歴史,そしてこれからの歴史を意味すると監督は言っています.ありえた歴史という言葉には,監督の苦い思い,映画についての,ヨーロッパに共通の危機意識を感じます.
(映画はホロコーストを記録できなかった,と映画史の中で何度も言っています.革命後ソ連映画のように、人々に理想を伝える大きな力を持っているはずのメディアが,そのテクノロジーゆえ権力者に独占され,記録され伝えることができたはずのことが出来なかった,という思いなのでしょう.権力によるテクノロジーの独占,特にメディア関連のテクノロジーについては,SNS,スマートフォン,そしてYouTubeなどのインフラのおかげで,21世紀も10年経った時点で,やっと,かなり解決できたと僕は思っています)
この作品は80年代後半からの10年を費やして作られていますが,非常に特異な作品であるのは,1.そもそもフィルムではなく,無数の映画のビデオからのカットアップであること,2.登場する人物は監督を含めたほんの数人であること,3.作品自体が進化し続けること,4.映画のフォーマットをまるっきり無視したような映像作品なのに,それでも監督自身のヌーヴェルヴァーグ風味があること を挙げておきましょう.
ヌーヴェルヴァーグ風味がこの作品でも感じられるところは,うまい具合に
公式サイトのトレイラーにあります.
ここのQuicktime movieの最初の方をご覧ください
謎の美女が,謎な朗読をしています.
謎の美女が謎な(電波な)語りをしたり,あるいは黙ってカメラ目線でこっちをじっとみている,というカットが唐突に入る,
これはヌーヴェルヴァーグによくある特徴で,特にゴダール作品に多い.
これが気になって,それ以前と以後の映画ではどうなのかと考えると,
それ以前にはあまりない.それ以後では,少ないけどある.

ヌーヴェルヴァーグ運動では,アンチハリウッド的に,映画自体の作り方を変革しようと言う強い意志がありました.僕の思う特徴は,

脚本を固定せず,役者にさせる芝居を最小限にし,回していたフィルムを編集で作品に形作る.
編集でつくるというのは強力ですね.結果として,監督の作家性は強まる.

さらに,全体を通して一つのテーマを語るなんてのはまだるっこしい,いいたいことは直接役者に朗読させてしまおう,そのためには美女の登場だ
だからって,説教臭いのはたまらない,やりたくない
見る人に考えてもらうのが一番だ,なるべく多義的にしよう,解釈してもらおう,
その結果として,心地よい謎だらけ.
ヌーヴェルヴァーグについては,沢山の人が沢山の見方で語っているので,
これは僕のまったく個人的な見方なんですが,
いまこうやって考えてみると,これはなかなか短気かつ強力な方法論ですねー.
どうしてこういう発想に至ったか.
映画史は,ヌーヴェルヴァーグ以降の映画については,ほとんど触れていません.自分の映画,そしてヌーヴェルヴァーグというムーブメントは何に影響されて出来たのか,それを説明したいという情熱に突き動かされているように思えます.
映画史で示される,ゴダールに,ヌーヴェルヴァーグに,影響を与えた映画は
1.ドイツ表現主義映画:長編で,人間の内面を,ダークサイドをえぐるような描写が多い.関係者はナチス政権によって弾圧されハリウッドに行った人が多い
2.革命後のソビエト映画:スターリンが権力を握るまでのほんの短い間にしか存在でなかった.社会主義革命,抑圧された人々の怒りと解放,といった理想を美しくも残酷な映像に
3.戦前のハリウッドフィルム:結構,フィルムノワールなギャング映画が多い.また家族の問題など,意外にも今日的なテーマが多い.もちろんいち早く分業と産業化を押し進めた
4.戦後イタリアのネオリアリズモ映画:これ,日本ではもっともなじみがあるとおもいます.貧乏で虐げられた民衆,貧困,犯罪,絶望,そして没落した貴族階級.

ちょうど時代としてベトナム反戦,1968年の5月革命,とフランスの政治も社会も揺籃期であり,
http://ja.wikipedia.org/wiki/五月革命_(フランス)
戦後ハリウッドの,巨大映画作成システムが世界を覆っていくのに我慢ならなかった,もっと身軽に作りたい,作家性も出したい,自由にやりたい,ベトナム戦争反対,左翼だといってもスターリン主義は大嫌いだ,そして見た人にはいろいろ考えて欲しい,そんなモチベーションから考えだされた一つの結論としてヌーヴェルヴァーグがあるのだと思います.

あれえー,なんだか,Unityが出て来た理由と似てますね.
巨大な分業態勢でないと作れないものじゃなくて,
身軽にさっさと作る.さっさと作ってさっさと公開.みんなで議論.
ただ,そこで肝心なのは,なにが面白いとおもってくれるのか,なにを放ったら賢い聴衆はおもしろく考え解釈してくれるのか,そこが大事!だと思います.

映画史をぶっとばして,Mikulusは,いきなりヌーヴェルヴァーグだ!と僕が思ったのはその方法論がすでに出来ていたからなんだろうな.
一つの映像が それ自体で何かを/
明瞭に表現していたり/解釈を含んでいる時は/
他の映像と合体しても 変化しない/
他の映像の影響を受けず/
他の映像に影響もしない/作用も反作用もない/
映画の体系では そんな 決定的な映像は使えない/
全てを示そうとするな/
未定義の余白が大事だ/
          ロベール・ブレッソン シネマトグラフ覚書
MikulusもLukalusも,Reactive であることが,面白さを生んでいる一つの要因でしょう.
解釈の余地がない,白黒はっきりした表現はつまらない,そんなものは存在していないことがまた魅力の一つではないでしょうか.
仮に,媚びこび100%な,あるいは,どセクシーなミクさんが
迫って来たら,たぶんOculusを外して逃げ出してしまうでしょう.
いまのところ,Oculus開発勢の皆様がつくられているものは,Reactiveであることと
解釈の余白の部分,ある種の慎ましやかさ,が絶妙のバランスで存在しているとおもえるのです.その美しさ.
すべてが相対的だ すべてが/
相対的な状況と 相対的な真実しかない/
すべてが状況にかかわる/古い流派に人々は/
闘争を大きな記録映画で撮れと言うが/
私は やはり/
若い女性の恋のため息を 無視することはできない
            ジャン・ルノワール

巨匠ジャン・ルノワールがこう言っています.これ,とても難しい問題.
若い女性を出すことは,それ自身が強力なコンテンツになりえますが,それ《だけ》に頼っていては,なんにも進まない.さすがのゴダールも,若い女性が一人も出てこない作品というのは滅多になく,映画史においても初老のゴダールのつぶやきに飽きた頃に女性をだしてくる.

若い女性を便利につかわず,なおかつ魅力的なコンテンツを作る,
この難しい問題について,僕が一つ考えるのは
コンテンツの作り手が女性であること.
(実はヌーヴェルヴァーグはそれには失敗していると言わざるを得ない.アニエス・ヴァルダぐらい?)
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:ヌーヴェルヴァーグの映画監督
さて,諸賢がお考えのように,スーパー主婦様こと
@Somelu01 さんを始めとする女性陣がすでに活躍中ですが,
ここへきて,急激になつかしのHyperCardとスタック作家達のことを思い出しました.
HyperCardとスタック作家達
いまから25年前,HyperCardという非常に簡単,わかりやすく,かつオブジェクト指向プログラミングの概念が非常に綺麗に厳密につくりこまれた環境が,タダでMacについてくるようになり,沢山の,無名の《作家》の方が作品を発表しまくる事態になりました.女性の有名作家の方も何名もおられました.
そのブームは,5年ぐらい続きましたが,HyperCard自体が進化を止めてしまい,徐々に消えていってしまいました.
もとからプログラムのスキルが高い人は別の開発環境で続けましたがソフトウエア作品の開発を止めてしまった人も数多くおられます.こちらに当時のスタック作品について触れられています
有名作家のおひとり,ヒメタローさんるじるしさん
これが当時おもしろくて仕方がなかったのは,プログラミング自体は簡素なものであるのに,コンテンツとして絵本の概念を拡張していったような,また紙の絵本では,当時まず出版されないようなネタが多数公開されました.
しぼんでしまった理由はもう一つ考えられます.絵本の拡張的なものがつくりやすかった環境のせいもありますが,そうすると,まず,絵が魅力的でないと成立しない.いやあ,個性的かつ魅力的な絵を描くというのは,ものすごく高度なスキルで難しい.

これーからーずっとー歌声は途切ーれなーい!

さて,いいたいことはもうお判りでしょう.ニコ動カルチャーのおかげで,2次元静止画,3次元モデリング,画像編集,音楽,人と人を結びつけるハブのような人,的確な批評を書ける人,HyperCardのころと比べると,格段に高度な内容を,格段にたくさんの人でよってたかってコンテンツ化できるようになりました.
以前,生意気にも @MIRO さんに力説したことなのですが,クリエイターの数,質,さまざま方向性,これがもう臨界点を超えていると思えるのです.もう止まらないと言っていいでしょう.

舞台無き演劇
最後に,考察が難しかったLukalusの楽しさについて,@Somelu01さんとのやり取りで,すこしづつ糸がほぐれてきました.
ーーー
@Somelu01 世界に酔っちゃう気持ちと、手の届かないものへの切なさとかはかなさと、共感して愛おしむ気持ちが一言で伝わる感じがします!ミクさんあましょっぱカワイイ!
@Somelu01 舞台なき演劇も、客が舞台に上がっても、境界が消されるとかぼんやりするというより、入れ子のように多重に劇中劇化するように感じて惹かれます。どこかに観客の視点があって、自分のいる場を劇としても見ている感じで。
ーーー
自分のいる場を劇として見る,一つメタな視点を持たざるを得ないところ,
そして @needle さんが追求されている,自身がVRの中にいると認識すること,VR内での自己の表現はどうすればいいのか,ここに繋がってくると思えます.
また,多視点ではどうなるのか
ーーー
@Somelu01 一日もやーと、視界ジャックや、マルチビューが可能で見せられたらどうなるんだろうと考えてたら、漫画の表現ってそれを編集してつなげたものに一番近そうだなと思いました
@Somelu01 私も少女漫画イメージしてました。主人公ごとの一話もですし、コマごとに主人公の視点になったり相手の視点になったり、俯瞰したり、心象風景になったり、1ページ単位でめまぐるしく自由自在だなあと感じていました。
ーーー
僕はそれを聴いて,ハチミツとクローバーのような群像劇を思い浮かべました.
全員が片思いという,まあ,少女マンガでもなかなか出来ないシチュエーションでのみ可能なのかもしれませんが,特に前半は,一つのエピソードについて複数の登場人物の視点で複数のタイムラインで並べるという面白い作り方がしてありました.
ーーー
@needle リアルタイム3Dではないですが、多視点のストーリーテリングならばチュンソフトの「街」「428〜封鎖された渋谷で」が素晴らしかったです。井上夢人「99人の最終電車」あたりも。
ーーー
ここに,映画史を超えるなにかのヒントがあるかもしれません.
開かれた議論がまた始まるのでしょう.
======================

おまけ 名前のある怪物:《映画史》

 ゴダールの映画史は,過去の名作の数秒から長くて数十秒のカットアップで構成されていて,そのまんま見ていくと,ものすごい情報量のビデオドラッグ,脳マッサージのような感じすらしてきます.1930年生まれですから,これを作っていたことは50代後半~60代だってことを考えると,すでにこのころ,爺の年齢にさしかかっていた監督が20世紀の終わりにとんでもないものを投下していったなと思います.

さらに驚くのは,これが“完成”したと思えるのは,2001年終わりに出た日本版DVDです.5枚組のDVDに,わずかな瞬間でしか登場しない映画や絵画,音にまで徹底的に注釈を書きリンクを張ってあり,注釈画面の数3,075ページ!! DVDのオーサリングをやった人ならお判りになるかとおもいますが,このオーサリング作業だけでも地獄としか思えません.注釈を書いた映画史日本DVD制作集団2001,映画史翻訳集団2000の人たち,オーサリングをした人たち,のとんでもない努力によって,この作品が完成したことを考えると,

監督の手を離れてから完成,巨大なインタラクティブ作品,と異例づくめのモニュメンタルな怪物であると震撼します.

 それだけのものだったら,さぞかし映画やメディア論の授業で使うといいものだろうと思うでしょう!思いますよね!?これが全く使えないんです.それはなぜか

 かなりの部分で,唐突に,ポルノフィルムが挟んであるんですよ.

いわゆるアダルトビデオもありますが,古ーい,

金持ち貴族が個人で撮ったと思わしきエロフィルムも多数はいっています.

 これはどう解釈すればいいのか.

パーソナルなエロい部分は,いつだってシステムから逸脱していく,テクノロジーの解放(Liberation)と考えればいいのか,

いつだってエロは新しいメディアの原動力と考えればいいのか,

いずれにしても,《映画史》をつかって授業をやったろうなんて手抜きはさせねーぜ!と,ゴダール爺がニヤリとしているように思えてなりません

 

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